ネタバレ感想・映画「カイジ 人生逆転ゲーム」
見に行ってきました。
原作の漫画は読んだことないんですけどね。アニメもほとんど見たことない。
でもこの手の、原作がマニアックで有名どころの俳優が出てる映画っていうのは、たいてい原作ファンを失望させるつくりになってるから、逆に良いかなと思って見に行きました。
では、以下ネタバレ感想。
原作の漫画は読んだことないんですけどね。アニメもほとんど見たことない。
でもこの手の、原作がマニアックで有名どころの俳優が出てる映画っていうのは、たいてい原作ファンを失望させるつくりになってるから、逆に良いかなと思って見に行きました。
では、以下ネタバレ感想。
[More...]
大義無き生活
就職してからというもの、先輩らと遊びに行ったりして何かと楽しく過せてはいるものの、読書による文学研究は、大学卒業の時点からなんら進歩していない。
いやそもそも、学生時代に少しでも文学を研究できたのかと問われて、自信を持ってなにがしかの成果を提出することすらできないわけだが、それはひとまず措いてもらうとして、自らが「学生」である、という立ち位置から離れ、ただの社会の一歯車たる会社員となってしまった現状において、もはや私には文学をなすことの大義名分が無くなってしまったというわけである。
それと同じくして、私はテレビアニメも見なくなった。
学生時代――いわゆるモラトリアムの時代には、私にとってアニメは、一種の精神安定剤として、または現実逃避の材料として働いていたと思うのだが、会社に就職し、或る程度まともに働くことが出来ているこの現実に至って、もはや不安を取り除く必要性というものが無くなり、よってアニメを見る必要性というものも薄らいでしまった。
ただ、以上のような状況に陥っているとはいえ、私は依然、文学もアニメも好きであることに変わりは無い。
変わり無い事と言えば、私は昔からテレビゲームが好きである。これは今も変わらない。
むしろ文学とアニメの趣味が減退した今日においては、このテレビゲームの趣味が最も秀でた趣味であると言うべき状態になっている。
テレビゲームの無価値性については、以前にも何度か行っていると思うので、詳しい事はここでは書かない。
ただ言っておきたいのは、今の私には、大義が無くなってしまったということだ。
作家になる才能が自身にあるとも思えず創作活動にも精は出ない。
ならば評論家かと言ってそうもいかないため読書にも身が入らない。
娯楽にひた走ってアニメフリークになるかと思えば、文学ほどの新鮮味の無いオタク文化の薄さに中てられ、視聴意欲も喪失した。
そこで残ったテレビゲーム。
これには最初から意味は無く、ただひたすら数値を変換する作業に追われるだけ。
1から100までレベルを上げるためにただひたすらモンスターの画像を表示させ、勇者の画像に剣を振るわせ、倒れたモンスターから経験値とお金を手に入れた文字を表示させ、その分の経験値とお金をプラスされた主人公パーティを絵の中で歩き回らせる作業に没頭する。
変わるのはただ数字と絵だけであり、知識などろくなことは得られず、作業を重視しているためにストーリーも低劣で味気ない。
ただひたすら数字と絵を変える作業。
しかし、これは言い換えれば、簡単に変化を味わうことができるというわけだ。
文学を研究してもそうそう成果は得られず、アニメを見ても二番煎じ三番煎じの繰り返しにナンセンスしか見ない。
だがテレビゲームは違う。意味は無くとも変化がある。
大義無き生活において、流れる時間、否応無く変化する時間の中で、その流れに乗って調子の良い生活を続けていくには、なにがしかの変化を自ら起こす必要があるだろう。
そのための行為が、私にとってはテレビゲームだったというわけだ。
もし、大義無き生活において、変化することをやめてしまったならば、おそらくその人間はすぐにでも死んでしまうのではないだろうか?
私は死にたくはないので、それを試すつもりはない。
と、いうわけで、テレビゲーム万歳!
という結論を最後に、現状の堕落した生活に対する言い訳を終了する。
いやそもそも、学生時代に少しでも文学を研究できたのかと問われて、自信を持ってなにがしかの成果を提出することすらできないわけだが、それはひとまず措いてもらうとして、自らが「学生」である、という立ち位置から離れ、ただの社会の一歯車たる会社員となってしまった現状において、もはや私には文学をなすことの大義名分が無くなってしまったというわけである。
それと同じくして、私はテレビアニメも見なくなった。
学生時代――いわゆるモラトリアムの時代には、私にとってアニメは、一種の精神安定剤として、または現実逃避の材料として働いていたと思うのだが、会社に就職し、或る程度まともに働くことが出来ているこの現実に至って、もはや不安を取り除く必要性というものが無くなり、よってアニメを見る必要性というものも薄らいでしまった。
ただ、以上のような状況に陥っているとはいえ、私は依然、文学もアニメも好きであることに変わりは無い。
変わり無い事と言えば、私は昔からテレビゲームが好きである。これは今も変わらない。
むしろ文学とアニメの趣味が減退した今日においては、このテレビゲームの趣味が最も秀でた趣味であると言うべき状態になっている。
テレビゲームの無価値性については、以前にも何度か行っていると思うので、詳しい事はここでは書かない。
ただ言っておきたいのは、今の私には、大義が無くなってしまったということだ。
作家になる才能が自身にあるとも思えず創作活動にも精は出ない。
ならば評論家かと言ってそうもいかないため読書にも身が入らない。
娯楽にひた走ってアニメフリークになるかと思えば、文学ほどの新鮮味の無いオタク文化の薄さに中てられ、視聴意欲も喪失した。
そこで残ったテレビゲーム。
これには最初から意味は無く、ただひたすら数値を変換する作業に追われるだけ。
1から100までレベルを上げるためにただひたすらモンスターの画像を表示させ、勇者の画像に剣を振るわせ、倒れたモンスターから経験値とお金を手に入れた文字を表示させ、その分の経験値とお金をプラスされた主人公パーティを絵の中で歩き回らせる作業に没頭する。
変わるのはただ数字と絵だけであり、知識などろくなことは得られず、作業を重視しているためにストーリーも低劣で味気ない。
ただひたすら数字と絵を変える作業。
しかし、これは言い換えれば、簡単に変化を味わうことができるというわけだ。
文学を研究してもそうそう成果は得られず、アニメを見ても二番煎じ三番煎じの繰り返しにナンセンスしか見ない。
だがテレビゲームは違う。意味は無くとも変化がある。
大義無き生活において、流れる時間、否応無く変化する時間の中で、その流れに乗って調子の良い生活を続けていくには、なにがしかの変化を自ら起こす必要があるだろう。
そのための行為が、私にとってはテレビゲームだったというわけだ。
もし、大義無き生活において、変化することをやめてしまったならば、おそらくその人間はすぐにでも死んでしまうのではないだろうか?
私は死にたくはないので、それを試すつもりはない。
と、いうわけで、テレビゲーム万歳!
という結論を最後に、現状の堕落した生活に対する言い訳を終了する。
【PS3】CALL OF DUTY 4 : MODERN WARFARE
![]() | レジェンダリーヒッツ コール オブ デューティ4 モダン・ウォーフェア (2009/09/10) PLAYSTATION 3 商品詳細を見る |
最近、PS3のオンライン環境が整ったので、「コール・オブ・デューティ4 モダン・ウォーフェア」という、2年前に発売されたFPSのオンライン対戦をよくしている。
FPS(ファーストパーソンシューター)……つまり一人称視点で銃を撃って敵を倒すゲームだ。
2年前のソフトながら、未だに人気は健在で、来月にようやく、PS3の廉価版が発売される。
このゲームの人気の要因は、(1)画質の高さと、(2)舞台が現代戦なため、用いられる兵装類が現代兵器になっているわけだが、その格好良さ、そして(3)システムバランスの良さ、(4)オフラインでのシングルプレイのシナリオ及びその演出の巧さ、などが主に挙げられると思う。
個人的には、やはり(2)の要因が持つ魅力が大きい。M4カービンを持って米海軍フォース・リーコン側の兵士として戦える時は、入る気合も一入である。
このゲーム、オフラインのシングルプレイモードでは、基本的にはイギリスのS.A.S.に所属する隊員を主人公として進めていくのだが、一部のミッションでは、アメリカ海軍の偵察部隊フォース・リーコンの兵士の視点で進めるものがある。
一度シングルプレイを最後までやりとおすと、好きなミッションを選んでプレイが出来るようになるのだが、私なぞオンライン環境が整うまでの間は、もっぱらフォース・リーコンのミッションばかり繰り返しやっていたものだった。
なぜって、アメリカ兵の見た目ってカッコイイじゃん!
S.A.S.はサバイバルって感じで装備少なくて兵士っぽくないし、ガスマスクに黒ずくめってのもなんだか悪役っぽいし、敵対勢力なんてあからさまなやられ役の顔してやがる。いくらチェ・ゲバラが好きでも、この手の雑魚革命戦士は好きになれない。
ところでシングルプレイとマルチプレイの比較をさせていただきましょう。
今回はこのゲームのレビューを書くのが目的なので。
●シングルプレイ
・敵を撃っても当った表示及び死んだ表示がでない。(倒れても死んでない場合があるので困る)
・突っ込むより慎重に行った方が良い。(シナリオを進行させる必要があるから簡単に死ねない)
・派手な演出が入る。(臨場感がある。戦争っぽい)
●マルチプレイ
・敵を倒せば倒すほど使える兵装類が増えていく。(とにかく敵を倒すことが目的と化す)
・死んでもすぐ復活するからとにかく突っ込んでとにかく倒すべし。(スポーツ化。戦争っぽくない)
・上手くないとやられてばかりで疲れる。(上手ければ楽しくて中毒化)
簡単に比較するとこんなところでしょうか。
多くの人は、マルチプレイの楽しさにはまっていつまででもやり続けているようですが、シングルプレイが演出の効果もあって戦争を疑似体験している色が強かったのに対し、マルチプレイでは一転、一種のスポーツと化しているのが少し残念な気がする。
死んだと思ったらすぐ復活してまたすぐに死ぬ・・・。下手だとそれの繰り返しですぐに嫌になる。私がそのパターン。
まぁでも時にはぼちぼち倒せたりもするので、嬉しくてまたやっちゃうというね。
今現在のところ、PS3でオンラインにつなぐと、外国人ばっかりです。
つなぐ時間帯が問題なのかもしれませんが(平日の夕方が多いので)。
それでも対戦相手には困らないので、フレンド(PS3のオンライン上で相互に登録した知り合い)がいなくても、対戦に困ることはないでしょう。
ただし、上述しましたが、マルチプレイはシングルプレイと違い、ほとんどスポーツゲームと化しています。
建物の影に潜んで敵を待ち伏せていると、それは「キャンパー」などと呼ばれ、役立たずとして蔑まれます。(蔑まれると言ってもゲームやってるその場ではボイスチャット使ってる人がいない限りコミュニケーションのとりようがないので、後々匿名掲示板などで、ということですが)
戦略として、戦争ゲームのロールプレイとして、そういったキャンプやクリアリングのようなチマチマした行動をとっていると瞬殺されて復活、瞬殺されて復活をただ繰り返すだけのストレスゲーになってしまいます。
なので、これはマルチプレイに限ってスポーツ系FPSとして定義したほうが良いと思います。つまり、このゲームは、外見だけミリタリーっぽくしたスポーツ系FPSであり、そういったものに興味がある人にこそオススメすべきゲームであると思います。
ですから、純粋な戦争を体験するゲームを、マルチプレイの方に求める(シングルプレイのほうは中々の戦争ゲーなので、そこは勘違いしないでいただきたい)のは間違いなのではないかという指摘を最後にして、レビューを終わりたいと思います。
ぼそぼそ
「まったく、おじいちゃんはいっつも私の悪口ばっかり言って」
祖母がぶつぶつ文句を垂れる。
「あんたらの前ではいい顔しとるけどな、二人になるとひどいんやから、ほんとに」
病院の大部屋。カーテンを閉めて家族に囲まれる祖母は、愚痴こそこぼしているが、至って元気そうだった。これで癌が全身に転移しているなどとは、到底思えない。
数週間して、数日ほど実家に帰って過した後、ホスピスの個室へと移った祖母。どうやら相当、具合が悪いらしい。
実感が湧かない。実家ではほとんど会わなかった。会社に出勤する時と、お風呂上りに「おやすみ」を言いに行く時ぐらいしか顔を合わせない日々。そんな時の祖母は、調子の悪い祖母のために母親たちが用意したソファに座って、顔だけ振り返って笑顔で返事をしてくれていた。
座りながら、手に杖を持っているということ以外、特別これまでの日常と変わらない祖母の様子に、やはり余命が短いという実感は、湧かない。
母親に聞いたところでは、医者は「もって一ヶ月の命」と言ったそうだ。
看護師をしているこれまた母親から聞いたところでは、医者が余命宣告をする際、宣告より早くに患者が死んでしまうと遺族に文句を言われるから、余命宣告は本来の見積もりよりも短く言うのではないか、とのこと。
しかし、その話をした当の母親の目から見ても、「一ヶ月もつのかどうかすら怪しい」のだという。
ホスピスに移って数日して、数週間ぶりに見舞いに行った。ただし一人で自主的にではなく、家族同伴でほぼ無理矢理に連れて行かれたようなものだ。
その時の祖母は、たしかに弱っていたようだった。
鼻に呼吸を補助するチューブを挿され、今まで上半身を起こす程度はしていたはずだが、もうさすがに寝たきりになっているようだった。
しかし、会話は普通に出来ている。
チューブと寝たきりになっているらしいことが、多少の不安めいたものを呼び起こしたが、その時の私の関心事は他にあった。
祖母の命が短いということで、遠い親戚も同じ日、一度こちらの実家に集まって見舞いに来ていたのだが、その親戚の中に、同年代とちょっと下の年齢の姉妹がいて、彼女らが結構な美人さんになっていたのだ。久々に会ったので、親戚とは言え少々見惚れてしまった。
それにひきかえ、ウチの妹は……などと、現を抜かしていたわけだ。
ホスピスの見舞いから2日後の深夜4時半頃だったと思う、付き添っていた祖父に、祖母は初めて苦しさを訴えた。すぐに実家に連絡が行き、母親と父親が一時間ほどで駆けつけたが、ほんの数分前に息を引き取ったという。5時半過ぎに、母親からその旨メールが届いた。
その時、私は仕事場の仮眠室で眠っていたのだが、携帯のメール着信の振動音で目を覚まし、メール本文に目を通した。
少々ショックは受けたように思うが、やはり、実感は、湧かない。
特にその時は半分寝ているような状態で、短い仮眠時間を中断してしまったこともあり、私はそのメールに対して返信はすることなく携帯を閉じ、再び眠りに就いた。
私の仕事先では、一親等までの家族が逝去した際には、弔電が贈られ、特別休暇を取ることもできることになっているが、二親等以上の家族に関してはそれに含まれず、もし休暇を取るなら有給休暇を消費しなくてはならない。
しかし、運が良いのか悪いのか、はたまた祖母の気遣いか?
通夜が開かれるのは勤務が明けて帰った翌日で、その次の日に葬式を行うことになったのだが、その二日は、勤務予定ではちょうど公休(24時間勤務の交代制のため土日休みの代わりの二日連休が月に四回、ランダムで配置される)に当っており、さらには法要の21日目にゴエンサン(漢字不明。お坊さんのことをこう呼ぶらしい)と、生前祖母と親しくした人が数人、実家に集まって経を唱えることになっているのだが、その日も一日、たまたま公休になっていた。
おかげで年休(年次有給休暇のこと)を消費せずに済んだわけだが、そもそも入社一年目の私に、何事も無く年休を使う機会は無く、今回は或る意味で絶好の使いどころだったわけだが、それを逃したのは幸と見るべきか不幸と見るべきか……。
こんな不謹慎なことを考えるのも、祖母の死に対する実感が湧かないからだが、唯一火葬場で、最後の別れを済ませる祖母の友人たちの悲しそうな姿を見ているときに、もらい泣きしそうになった。だがそれは、おそらく私の実感ではないだろう。
実感は、未だに湧かない。
何故なのか? よく言うように、私が冷酷な人間だとか、そういうことなのだろうか?
そこで私は、一つの仮説を考え付くに至った。
祖母は演技していたのではないかと。
本当は苦しかったにもかかわらず、それを隠し、平気な振りして他人の悪口を言う。
“ああ、おばあちゃんはまだ元気だ。これなら心配する必要も無い”
そう思わせて、少しでも周囲の人間を苦しませないように配慮していたのではないか。
病気が治ったら……などと、自分の余命の短さに気づいていない振りをして、逆に余命の短さを訴えて、やりたいことをやりまくって最後に家族にさんざんな迷惑をかけることなく、何事も無く往生しようと考えたのではないか。
祖母は、いわゆるツンデレというやつだったのではないか?
そんな独りよがりで、おどけた考えを題材に、祖母視点で小説を書いてみようと真剣に考えた。
しかし、それはちょっとやりすぎのように思う。
まぁ、私小説を本気で書こうと思ったら、この程度、やりすぎでもなんでもないとは思うが、あまり祖母に対して恩返しもしてやれなかった私であるから、今回は自らを自らで罰する意味も込めて、この告白を記すことにした。
告白と言っても、全ての情報を正確に書ききれいている自信は無い。なにせ実感の無い出来事に関する記述なのだ、間違いもきっと多かろう。
故にこれは、虚構の文章という風に定めておく。
少なくとも、このブログがWEB上に存在している限り、私にとって消しがたい記録として、祖母の死はここに刻まれることになる。それがせめてもの、祖母に対する私の贖い……というのは、あまりにも格好付けすぎだろうか?
まぁ、懺悔なんてこんなものだろう。いやそもそもこれを懺悔だなどというつもりで書いたわけでもない。そんな甲斐性があれば、通夜の夜に葬儀場で夜を明かすために『ドグラ・マグラ(上)』(夢野久作、角川文庫)を持って行ったは良いものの、一文字も読む前に疲れ果てて、家族と親戚数名を残して、家に帰って寝るなんてことにはならなかったはずだ。
では結局、この文章は何なのか?
強いて筆者である私から言わせてもらうなら、素直に祖母の死に対する悲しみを表現できない愚かな孫の、精一杯の祖母への手向け――つまりは、筆者はツンデレなのではないか? とでも思っていただければ良いだろう。
<了>
祖母がぶつぶつ文句を垂れる。
「あんたらの前ではいい顔しとるけどな、二人になるとひどいんやから、ほんとに」
病院の大部屋。カーテンを閉めて家族に囲まれる祖母は、愚痴こそこぼしているが、至って元気そうだった。これで癌が全身に転移しているなどとは、到底思えない。
数週間して、数日ほど実家に帰って過した後、ホスピスの個室へと移った祖母。どうやら相当、具合が悪いらしい。
実感が湧かない。実家ではほとんど会わなかった。会社に出勤する時と、お風呂上りに「おやすみ」を言いに行く時ぐらいしか顔を合わせない日々。そんな時の祖母は、調子の悪い祖母のために母親たちが用意したソファに座って、顔だけ振り返って笑顔で返事をしてくれていた。
座りながら、手に杖を持っているということ以外、特別これまでの日常と変わらない祖母の様子に、やはり余命が短いという実感は、湧かない。
母親に聞いたところでは、医者は「もって一ヶ月の命」と言ったそうだ。
看護師をしているこれまた母親から聞いたところでは、医者が余命宣告をする際、宣告より早くに患者が死んでしまうと遺族に文句を言われるから、余命宣告は本来の見積もりよりも短く言うのではないか、とのこと。
しかし、その話をした当の母親の目から見ても、「一ヶ月もつのかどうかすら怪しい」のだという。
ホスピスに移って数日して、数週間ぶりに見舞いに行った。ただし一人で自主的にではなく、家族同伴でほぼ無理矢理に連れて行かれたようなものだ。
その時の祖母は、たしかに弱っていたようだった。
鼻に呼吸を補助するチューブを挿され、今まで上半身を起こす程度はしていたはずだが、もうさすがに寝たきりになっているようだった。
しかし、会話は普通に出来ている。
チューブと寝たきりになっているらしいことが、多少の不安めいたものを呼び起こしたが、その時の私の関心事は他にあった。
祖母の命が短いということで、遠い親戚も同じ日、一度こちらの実家に集まって見舞いに来ていたのだが、その親戚の中に、同年代とちょっと下の年齢の姉妹がいて、彼女らが結構な美人さんになっていたのだ。久々に会ったので、親戚とは言え少々見惚れてしまった。
それにひきかえ、ウチの妹は……などと、現を抜かしていたわけだ。
ホスピスの見舞いから2日後の深夜4時半頃だったと思う、付き添っていた祖父に、祖母は初めて苦しさを訴えた。すぐに実家に連絡が行き、母親と父親が一時間ほどで駆けつけたが、ほんの数分前に息を引き取ったという。5時半過ぎに、母親からその旨メールが届いた。
その時、私は仕事場の仮眠室で眠っていたのだが、携帯のメール着信の振動音で目を覚まし、メール本文に目を通した。
少々ショックは受けたように思うが、やはり、実感は、湧かない。
特にその時は半分寝ているような状態で、短い仮眠時間を中断してしまったこともあり、私はそのメールに対して返信はすることなく携帯を閉じ、再び眠りに就いた。
私の仕事先では、一親等までの家族が逝去した際には、弔電が贈られ、特別休暇を取ることもできることになっているが、二親等以上の家族に関してはそれに含まれず、もし休暇を取るなら有給休暇を消費しなくてはならない。
しかし、運が良いのか悪いのか、はたまた祖母の気遣いか?
通夜が開かれるのは勤務が明けて帰った翌日で、その次の日に葬式を行うことになったのだが、その二日は、勤務予定ではちょうど公休(24時間勤務の交代制のため土日休みの代わりの二日連休が月に四回、ランダムで配置される)に当っており、さらには法要の21日目にゴエンサン(漢字不明。お坊さんのことをこう呼ぶらしい)と、生前祖母と親しくした人が数人、実家に集まって経を唱えることになっているのだが、その日も一日、たまたま公休になっていた。
おかげで年休(年次有給休暇のこと)を消費せずに済んだわけだが、そもそも入社一年目の私に、何事も無く年休を使う機会は無く、今回は或る意味で絶好の使いどころだったわけだが、それを逃したのは幸と見るべきか不幸と見るべきか……。
こんな不謹慎なことを考えるのも、祖母の死に対する実感が湧かないからだが、唯一火葬場で、最後の別れを済ませる祖母の友人たちの悲しそうな姿を見ているときに、もらい泣きしそうになった。だがそれは、おそらく私の実感ではないだろう。
実感は、未だに湧かない。
何故なのか? よく言うように、私が冷酷な人間だとか、そういうことなのだろうか?
そこで私は、一つの仮説を考え付くに至った。
祖母は演技していたのではないかと。
本当は苦しかったにもかかわらず、それを隠し、平気な振りして他人の悪口を言う。
“ああ、おばあちゃんはまだ元気だ。これなら心配する必要も無い”
そう思わせて、少しでも周囲の人間を苦しませないように配慮していたのではないか。
病気が治ったら……などと、自分の余命の短さに気づいていない振りをして、逆に余命の短さを訴えて、やりたいことをやりまくって最後に家族にさんざんな迷惑をかけることなく、何事も無く往生しようと考えたのではないか。
祖母は、いわゆるツンデレというやつだったのではないか?
そんな独りよがりで、おどけた考えを題材に、祖母視点で小説を書いてみようと真剣に考えた。
しかし、それはちょっとやりすぎのように思う。
まぁ、私小説を本気で書こうと思ったら、この程度、やりすぎでもなんでもないとは思うが、あまり祖母に対して恩返しもしてやれなかった私であるから、今回は自らを自らで罰する意味も込めて、この告白を記すことにした。
告白と言っても、全ての情報を正確に書ききれいている自信は無い。なにせ実感の無い出来事に関する記述なのだ、間違いもきっと多かろう。
故にこれは、虚構の文章という風に定めておく。
少なくとも、このブログがWEB上に存在している限り、私にとって消しがたい記録として、祖母の死はここに刻まれることになる。それがせめてもの、祖母に対する私の贖い……というのは、あまりにも格好付けすぎだろうか?
まぁ、懺悔なんてこんなものだろう。いやそもそもこれを懺悔だなどというつもりで書いたわけでもない。そんな甲斐性があれば、通夜の夜に葬儀場で夜を明かすために『ドグラ・マグラ(上)』(夢野久作、角川文庫)を持って行ったは良いものの、一文字も読む前に疲れ果てて、家族と親戚数名を残して、家に帰って寝るなんてことにはならなかったはずだ。
では結局、この文章は何なのか?
強いて筆者である私から言わせてもらうなら、素直に祖母の死に対する悲しみを表現できない愚かな孫の、精一杯の祖母への手向け――つまりは、筆者はツンデレなのではないか? とでも思っていただければ良いだろう。
<了>





